ログイン二十七歩目で、リュゼルの左脚が崩れた。
膝が岩床へぶつかり、骨の継ぎ目から鈍い痛みが突き上げる。壁へついた左手も汗で滑った。暗がりの向こうでは、骨喰いたちの爪が石を叩く音が、雨のように重なっている。
近い。
湿った呼吸と腐肉の臭いが、もう背中へ届いていた。
「二十八……」
数を忘れないよう声に出し、リュゼルは立ち上がった。
右腕の墓碑紋は焼けたままだった。《黒竜鱗》を無理に使った反動で指先の感覚が薄い。胸の奥では、呼吸のたびに折れた骨が擦れ合っている。
二十九歩。
右側の岩壁に、不自然な窪みが見えた。
三十歩目を踏み出すと、窪みの奥へ縦に細い裂け目が走っていた。人一人が正面を向いて通ることはできない。肩を傾け、息を吐ききれば、辛うじて身体を滑り込ませられるほどの幅だった。
「ここか」
返事はない。
リュゼルは小刀を口に咥え、裂け目へ左肩を差し入れた。岩肌が破れた服越しに傷を削る。腰骨が引っかかり、脇腹の塞がった傷が再び開いた。温かい血が肌を伝ったが、止まれば背後から喉を食い破られる。
息を殺して身を捩り、片脚ずつ暗い隙間へ引き込む。
踵が岩の向こう側へ抜けた直後、骨喰いの群れが通路へ押し寄せた。
幾つもの白い目が裂け目の外を埋め尽くす。先頭の一匹が頭を突っ込み、牙を剥いた。半透明の鼻先がリュゼルの足首まで迫り、噛み合わされた牙が空を切る。
リュゼルは咄嗟に脚を引いた。
骨喰いは肩から先を押し込もうと暴れたが、肋骨が岩に挟まり、それ以上は進めない。後ろから仲間が圧し掛かり、狭い裂け目の外で唸り声と爪音が膨れ上がった。
入ってこられない。
安堵した途端、張りつめていた力が抜けた。
リュゼルは冷たい岩へ背を預け、ずるずると座り込んだ。喉が乾き、舌が上顎へ貼りついている。息をするたび胸が痛んだが、腐臭に満ちた空気さえ貪るように吸った。
「聞こえているか」
声を潜めて呼びかける。
返ってきたのは、骨喰いたちが岩を掻く音だけだった。
「三十歩進んだ。ここから、どうすればいい」
沈黙。
鎖の擦れる音も、少女の呼吸も聞こえない。
あの声は、本当に存在したのだろうか。
黒竜の記憶に意識を呑まれかけた時、聞こえた少女の声。ヴァルディオスが守ろうとした銀髪の幼子を見たあとだったから、自分が都合よく作り出した幻だった可能性もある。
けれど幻であったなら、なぜこの裂け目の場所を知っていたのか。
リュゼルは答えのない闇を見つめ、やがて小刀を握り直した。
外には戻れない。
裂け目の奥は緩やかに下っていた。身を横向きにしたまま、岩の間を少しずつ進む。肩や背中が擦れるたび、傷へ砂が入り込んだ。何度か身体を挟まれ、引き返すことも進むこともできなくなりかけた。
それでも左手で岩の突起を探し、歪んだ脚を引きずる。
やがて、頬を撫でる空気が変わった。
乾いた冷気に、湿った土と苔の匂いが混じる。
岩壁が途切れ、リュゼルの身体は小さな洞窟へ転がり出た。
青白い光が、低い天井を淡く照らしている。
光の正体は、岩肌を覆う細かな苔だった。星屑を撒いたような燐光が、洞窟の輪郭を浮かび上がらせている。広さは小屋一つ分ほど。外の空洞に比べれば狭いが、骨喰いの姿も腐臭もなかった。
そして、どこかで水が滴っていた。
その音を聞いた瞬間、身体の内側が引き絞られた。
リュゼルは音のする方へ這った。
洞窟の左奥で、岩の亀裂から透明な水が染み出している。雫は窪みへ落ち、両手ですくえるほどの小さな水溜まりをつくっていた。
水筒は空だった。
奈落へ入ってから、飲み水はセルヴァンたちへ優先して配っていた。落とされる半日前から、まともに水を口にしていない。唇は裂け、喉は熱を持ち、頭の奥で心臓とは違う脈が打っている。
這いつくばったまま、水面へ顔を近づけた。
湿った冷気が鼻先へ触れる。
飲めば生き延びられる。
飲まなければ、ここまで逃げてきた意味もなく死ぬ。
だが、毒を調べる道具はない。
地上近くの迷宮なら、銀貨を浸す、少量を薬草へ垂らす、虫の反応を見るといった方法が使えた。ここには銀貨も薬草も、生きた虫さえ見当たらない。
それでも渇きには耐えられなかった。
リュゼルは左手で水をすくい、口元へ運んだ。
指の間から落ちた雫が唇へ触れる寸前、右目の奥に熱が走った。
透明だった水面へ、銀色の薄膜が浮かび上がる。
油のように揺らめきながら、青白い苔の光を鈍く反射していた。
同時に、知らない記憶が脳裏へ流れ込む。
岩山の谷を流れる黒い水。
水を飲んだ幼い竜の鱗が白く濁り、身体の内側から結晶化していく光景。
深層魔力が水へ溶け込み、凝縮した毒。
ヴァルディオスの記憶だった。
リュゼルは水を投げ捨てた。唇に触れた一滴を袖で拭い、何度も唾を吐く。
「これも、飲めないのか……」
目の前に水がある。それなのに口へ入れれば、今度こそ死ぬ。
落胆に肩を落としかけ、記憶の底へ別の感覚が残っていることに気づいた。
黒い骨。
竜の炎で炭化した骨は、周囲の魔力を吸い寄せる。
リュゼルは服と腰袋を探った。ヴァルディオスの墓を作った時、破れた上着の裾へ引っかかっていた細い骨片が、腰帯の間に残っている。小指ほどの大きさしかないが、表面は黒く炭化していた。
荷物持ちとして、水の濾し方なら知っている。
野営地の水源が泥で濁った時、布と砂、小石、焚き火の炭を重ねた筒を何度も作った。誰も作り方を覚えようとはしなかった。飲める水が用意されることを、初めから当然だと思っていたからだ。
水筒の口へ、破ったシャツの布を幾重にも押し込む。
黒い竜骨を小刀の柄で細かく砕き、布の上へ敷いた。その上に粒の違う砂と小石を重ねる。身体が震え、途中で何度も中身をこぼした。竜骨の粉が指の傷へ入り込み、墓碑紋が微かに熱を放つ。
ようやく形になった水筒を岩の雫の下へ置いた。
一滴。
また一滴。
布と砂と黒い骨を通り、底へ透明な水が溜まっていく。
気の遠くなるような遅さだった。
リュゼルは膝を抱え、岩壁へ寄りかかった。外では骨喰いがまだ裂け目を掻いている。硬い爪が岩を削る音が、遠い雨音のように続いていた。
水筒の底に指二本分ほどの水が溜まったところで、右目を凝らす。
銀色の膜は見えない。
まず唇を濡らし、しばらく待った。舌の痺れも吐き気もない。次に一口だけ含み、時間を置く。
何も起こらない。
リュゼルは堪えきれず、水筒へ口をつけた。
冷たい水が、裂けた唇を通り、焼けついた喉へ流れ込む。乾いた身体の隅々まで染み渡るようだった。もっと飲みたい衝動を抑え、少量ずつ喉へ送る。
最後の一滴を飲み終えた時、目眩が僅かに遠のいていた。
「役に立たない知識じゃ、なかったんだな」
誰にも聞かれない言葉が、洞窟へ落ちた。
自嘲するつもりだったのに、声はひどく掠れていた。
罠の見分け方。火の熾し方。食料を長持ちさせる方法。毒を避け、水を濾す方法。武具の傷みを確かめる目。
セルヴァンたちから戦えない者の雑用と呼ばれてきたすべてが、今、自分の命をつないでいる。
水筒を再び雫の下へ置いた時、洞窟の奥から小さな音がした。
布を擦るような、弱々しい音だった。
リュゼルは小刀を抜いた。
燐光苔の途切れた奥へ右目を凝らす。低い岩陰に、何かが蹲っていた。
兎に似た小さな身体。
青みがかった灰色の毛並みと、額から生えた白い角。長い耳は力なく伏せられ、荒い呼吸に合わせて腹が震えている。
《月角兎》。
温厚だが臆病で、群れから離れることはほとんどない深層の魔物だった。
後脚が、錆びた金属の輪に挟まれている。誰がいつ仕掛けたのか分からない罠の残骸だった。逃れようと暴れたらしく、輪の周りには毛と血がこびりついている。
さらに腹部には、骨喰いの牙に抉られた傷があった。
リュゼルが一歩近づくと、月角兎が顔を上げた。淡い藍色の目に怯えが走り、喉から掠れた威嚇音を漏らす。
「捕まえに来たんじゃない」
言葉が通じるとは思わない。
それでも声を低くし、小刀を床へ置いた。敵意がないと示すため左手を開き、ゆっくりと距離を詰める。
月角兎は後退しようとした。
罠に挟まれた脚が引かれ、傷口から新しい血が溢れる。小さな身体が痛みに跳ねた。
「動くな。脚を外すだけだ」
リュゼルは罠の輪へ手をかけた。
次の瞬間、月角兎が左手へ噛みついた。
鋭い前歯が皮膚を破り、親指の付け根まで深く沈む。反射的に腕を引きそうになった。だが、怯えきった瞳を見て動きを止めた。
痛みで、月角兎の顎まで震えている。
「怖いなら噛んでいていい。もう痛いことはしない」
月角兎は離さなかった。
リュゼルは噛まれた左手をそのままにし、感覚の鈍い右手で小刀を拾った。墓碑紋の熱を抑えながら、錆びた輪の継ぎ目へ刃を入れる。
一度では切れない。
小刀の背へ石を打ちつけるたび、金属音が洞窟に響いた。月角兎の歯がさらに深く食い込む。血が手首を伝い、袖へ吸い込まれていった。
何度目かの打撃で、輪に亀裂が入った。
縄を隙間へ通し、体重をかけて左右へ引く。歪んだ脚に力が入り、リュゼルの視界も痛みに揺れた。
錆びた輪が、ようやく二つに割れた。
月角兎の後脚が解放される。
だが、逃げようとはしなかった。
噛んでいた口から力が抜け、ぐったりと岩床へ伏せる。
リュゼルは濾した水を布へ含ませ、脚と腹の傷を洗った。黒ずんだ血と膿が流れ、裂けた肉が露わになる。自分のシャツから残りの布を裂き、傷へきつく巻いた。
止血をしても、呼吸は弱くなるばかりだった。
腹の傷は深く、牙が内臓まで届いている。傷口から漂う甘い臭いが、もう手遅れであることを告げていた。
「……ごめん」
助けると約束したわけではない。
それでも謝らずにはいられなかった。
月角兎の身体が、小刻みに震えている。藍色の目は見開かれたまま、洞窟の入口へ向けられていた。
何かを待っている。
帰りたい場所がある。
リュゼルは小さな身体を持ち上げ、膝の上へ載せた。右手の墓碑紋が月角兎に反応し、黒銀色の光を帯びる。
黒竜を看取った時と同じ力。
また何かを奪ってしまうのではないかという恐怖が、指先を止めた。
けれど、このままでは月角兎は苦しみながら死ぬ。
力を得るためではない。
ただ、痛みを減らすために。
それは《看取り人》だった頃から、何も変わらないはずだった。
「俺に預けてくれ」
リュゼルは血に濡れた左手を、月角兎の背へ置いた。
痛みが流れ込む。
罠に骨を潰された苦痛。牙が腹を裂いた恐怖。群れとはぐれ、暗い穴へ逃げ込んだ孤独。息ができなくなるほどの痛みが、リュゼルの脚と腹へ重なった。
歯を食いしばり、震える身体を抱き締める。
月角兎の呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
噛みついていた時の強張りが消え、長い耳が膝の上へ垂れた。やがて小さな頭が、リュゼルの腹へそっと預けられる。
最期に流れ込んできたのは、痛みではなかった。
湿った苔の匂い。
柔らかな毛が三つ、腹へ身を寄せてくる温度。
まだ目も開いていない、小さな子どもたち。
乳を求めて鼻を鳴らす三匹を舐め、岩陰へ隠した記憶。
戻らなければ。
あの子たちが待っている。
月角兎の最後の鼓動が、リュゼルの掌へ触れた。
「分かった」
涙で声が揺れた。
「必ず見つける。だから、もう休んでいい」
藍色の瞳が、静かに閉じた。
小さな身体が淡い光へ包まれる。
リュゼルは驚いて腕へ力を込めた。だが、毛皮も肉体も指の間から光の粒となってこぼれ、黒銀色の流れへ変わって右脚へ吸い込まれていく。
引き止めることはできなかった。
膝の上には、血のついた布しか残らない。
右脚に新たな墓碑紋が刻まれた。細い月と角を組み合わせたような紋様が熱を持ち、空中へ黒い文字が浮かぶ。
《葬送継承・月角兎》
《継承能力・微音察知》
《継承能力・瞬脚》
「違う」
リュゼルは空になった両腕を見下ろした。
「力が欲しかったんじゃない」
返事はない。
月角兎の身体は、骨さえ残らなかった。
看取ったのではなく、自分が命を奪い、残さず食らったようにしか思えない。ヴァルディオスも、同じだったのだろうか。苦痛を和らげるふりをして、その生涯と力を自分のものにしたのではないか。
胃の奥から吐き気が込み上げる。
右腕と右脚の墓碑紋を、爪で抉り取りたくなった。
その時、今まで聞こえなかった音が耳へ触れた。
水滴が岩を打つ音。
苔の間を這う小さな虫の脚。
裂け目の外を歩き回る骨喰いの鼻息。
そして洞窟のさらに奥から、ひどく弱い鳴き声が三つ。
きゅう。
きゅう、と。
互いを呼び合うように重なっている。
リュゼルは顔を上げた。
《微音察知》。
月角兎が遺した力が、その子どもたちの居場所を伝えていた。
「生きている……」
洞窟の奥へ、細い穴が続いている。右目にも奥までは見通せない。だが三匹の鳴き声は確かにそこから届いていた。
リュゼルは小刀を杖にして立ち上がった。
身体は限界に近い。水を飲んでも空腹は消えず、裂けた脇腹からはまだ血が滲んでいる。歪んだ脚で奥まで辿り着ける保証もなかった。
それでも、行かなければならない。
死者から力を受け継いだのなら。
その者が命の終わりまで守ろうとしたものを、自分だけが知ったのなら。
遺されたものを守る責任まで、引き受けなければならない。
暗い穴へ右脚を踏み出そうとした時、静かな声が降ってきた。
「死にかけているのに、今度は魔物の子を助けるつもり?」
リュゼルは足を止め、声の響く天井を見上げた。
「……見捨てる理由がない」
短い沈黙が落ちた。
やがて見えない少女は、呆れたように小さく息を吐く。
「本当に、ヴァルディオスが選びそうな人間ね」
水音がするだけで、かつての地下神殿とは別の場所に思えた。《王域形成》が発動する以前、祭室の奥にあった水場は、岩の裂け目から濁った雫が落ちるだけの頼りないものだった。革袋を満たすにも長い時間がかかり、底には細かな砂が沈んだ。今では白灰色の石壁に沿って細い水路が走り、透き通った水が絶えず流れている。指を浸せば冷たく、鼻を近づけても腐臭も鉱物臭もない。崩れかけていた天井は継ぎ目のない黒銀の梁に支えられ、亀裂の奥から魔物が這い込んでくる気配も消えていた。城、とネフィリアは呼んだ。リュゼルには、まだその言葉が自分たちの居場所を指しているという実感がない。王座を思わせる高台があり、広間があり、寝室として使える小部屋がいくつも生まれた。外周には淡い紫色の膜のような結界が張られ、夜ごと聞こえていた獣の唸り声も遠ざかった。石床には冷気を和らげる熱が通り、裸足で歩いても以前ほど足裏が冷えない。それでも、目の前の木皿に載っている肉は増えなかった。リュゼルは切り分けた岩鎧猪の燻製肉を見つめながら、残量を頭の中でもう一度数えた。闇爪狼の干し肉が二袋半。岩鎧猪が一頭分には少し足りない程度。地下茸は食用確認済みのものが十数本。灰牙傭兵団が残した硬い乾燥パンは、子どもたちが無理なく食べられるよう水で戻せば三日分ほどになる。月角兎のために集めた青苔と柔らかな根草も、この周辺では十分な量が採れない。人が七人。月角兎が三匹。満腹を求めなければ、五日。さらに切り詰めれば七日。しかし、切り詰めた先に何があるのか。リュゼルはそこで計算を止めた。「リュゼル」呼ばれて顔を上げる。広間の反対側に座っていたネフィリアが、紫紺の瞳で彼の手元を見ていた。知らないうちに、肉を自分の皿から除けていた。一切れ。二切れ。脇へ寄せてある。「食べて」「あとで食う」「その言い方をする時は、食べないつもりでしょう」「食料の残りを見てただけだ」「それと、あなたの食事を減らすことに何の関係があるのかしら」言葉に詰まった。その間に、向かい側で衣擦れの小さな音がした。一番幼い少女が、自分の皿から肉をつまんでいる。五つか六つほどの年齢にしか見えない小さな手で、燻製肉を半分に裂こうとしていた。固い肉は簡単には千切れず、細い指先が赤くなる。隣に座るシュカの皿へ移そうとしているのだと気づき、リ
天井が落ちた。巨大な石塊が黒紫色の魔力に触れた途端、粉々に砕ける。砂塵が一気に舞い上がり、視界が灰色へ染まった。折れた柱が回廊を塞ぎ、床から噴き出した魔力が黒い雷のように壁を走る。「ネフィリア!」リュゼルは叫びながら腕で顔を庇った。返事はない。中心にいるネフィリアは、両足を床へつけてすらいなかった。銀白の髪を逆巻かせ、ほんの少し宙へ浮かんでいる。背中から広がった巨大な黒紫色の翼が、彼女の細い身体に到底収まるとは思えないほどの魔力を放ち続けていた。完全に解放された力。数百年分。本来なら長い時間をかけて身体へ馴染むはずだったものが、一度に戻っている。「シュカ!」奥の部屋へ向かって叫ぶ。「みんな連れて奥へ!」返事。聞き取れない。だが子どもたちの足音が遠ざかっていく。逃げるなら今だった。神殿そのものが崩れている。出口まで走れば、間に合うかもしれない。ネフィリアを置いて。その考えが頭を掠めた瞬間。リュゼルは自分でそれを切り捨てた。できるはずがない。自分が手を伸ばすと決めた。掴むかどうかは彼女に任せる。だが、彼女が掴んだ後でこちらから手を離すつもりはなかった。「ネフィリア!」魔力の奔流へ飛び込む。肌が裂ける。見えない刃で切り刻まれるような痛み。外套が破れる。それでも進む。一歩。二歩。ネフィリアまであと少し。翼が動いた。吹き飛ばされる。背中から床へ叩きつけられた。肺から空気が抜ける。「っ……」起き上がる。右腕の墓碑紋が熱い。完全契約はまだ切れていない。なら。つながっている。彼女がどれほど深い場所に沈んでいても。「もう一回だ」自分へ言い聞かせる。走る。今度は翼が振られる前に飛び込んだ。ネフィリアの身体を抱く。冷たいと思っていた肌が、今は焼けるほど熱かった。「離れ……」声。聞こえた。「ネフィリア?」「離れて……」本人の声。だが苦しげだ。「殺す……」「誰を」「全部……」抱いた身体が震える。黒竜の記憶へ呑まれた自分と似ている。しかしネフィリアの中にあるのは、一人分の記憶ではない。深淵王家。滅びた一族。その血に刻まれた魔力。何百年もの封印。怒り。恐怖。孤独。全部。「渡せ」リュゼルは彼女の背へ手を回す。「魔力を俺へ流せ」契約へ意識を向ける。
ネフィリアが「自由になりたい」と口にした瞬間、地下神殿は、長い眠りから目覚める獣のように身震いした。床に刻まれていた古代文字が一斉に黒紫色の光を帯び、何百年もの間、埃と血に埋もれていた溝を光が走っていく。柱から柱へ、壁から天井へ。振動は次第に大きくなり、継ぎ目から細かな砂が降り注いだ。奥の部屋で休んでいた子どもたちが不安そうな声を上げ、三匹の月角兎が物陰へ駆け込む足音が聞こえる。「ネフィリア、下がれ」リュゼルは反射的に彼女の前へ出た。だが、下がれる場所などない。ネフィリアの首と腰、両足から伸びる六本の黒鎖が、何者かの手に引かれたように空中へ持ち上がっていた。金属でできているはずなのに、鎖の表面が濡れた生き物の皮膚のように脈打つ。黒い魔力が一節ずつ膨れ、それぞれの先端から床へ滴り落ちた。一滴。二滴。黒い雫が石床へ触れるたび、人の形へ盛り上がる。鎧。兜。長剣。最初の一体が姿を現した時、リュゼルの右腕に刻まれた墓碑紋が激しく焼けた。「……こいつら」ネフィリアの声が低くなる。六本の鎖から、一体ずつ。計六体。全身を黒銀色の重鎧で包んだ騎士が、半円を描くように二人を囲んでいく。顔は兜の奥に隠されている。目に当たる隙間には赤紫の光だけが灯り、そのどれからも生者の呼吸は聞こえなかった。生きていない。だが、ただの人形でもない。「《刑罰騎士》……」ネフィリアの唇から、絞り出すように名が落ちた。「知ってるのか」「深淵王家の処刑に使われた魔法人形よ。正確には、処刑者たちの戦闘記録と意思を写したもの」彼女の頬から血の気が引いている。「王家に背くことを許さないための兵器だった。それが最後には、王家を殺すために使われた」六体の騎士が、同時に剣を抜いた。重い金属音が重なる。音だけで胸が圧迫される。「どうすれば鎖が外れる」リュゼルが問う。「おそらく」ネフィリアの視線が六本の鎖を辿る。「一体につき一本。あれを倒せば、対応する封印が砕ける」「全部で六」「ええ」「分かりやすいな」「笑っている場合?」「笑ってない」最前列の刑罰騎士が踏み込んだ。速い。重鎧の重量を感じさせない。リュゼルはネフィリアを抱くようにして横へ転がった。直後、剣が二人のいた床へ叩きつけられ、石が砕け散る。破片が頬を掠め、熱い筋が一本走った。立ち上がる
ネフィリアは、その夜ほとんど口を開かなかった。神殿に残された古い寝台へ腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、どこでもない場所を見ている。青白い鉱石灯が銀髪の輪郭だけを浮かび上がらせ、紫紺の瞳の奥までは照らさない。六本の鎖は、いつもと変わらず彼女の身体から伸びていた。首。腰。両足。そして背後の封印柱。何年、何十年、あるいはそれ以上。彼女はそれを当然のものとして身につけてきた。リュゼルは少し離れた場所で、肩の包帯を巻き直していた。片手ではうまく締められない。何度目かで布が緩み、舌打ちしそうになる。「貸して」ネフィリアが言った。顔はまだこちらを向いていない。「いい」「あなたは片手で巻くのが下手」「慣れてないだけだ」「慣れないで」短い言葉。リュゼルは手を止めた。ネフィリアが立つ。鎖を引きずりながら近づき、彼の横へ座る。包帯を受け取る。冷たい指先が肩へ触れた。布を解く。傷口を見た瞬間、眉間へ小さな皺が寄った。「深い」「動くから余計に開いた」「自覚があるなら動かないで」「ザハルに言ってくれ」「死んだ者へ説教する趣味はないわ」包帯を巻く手つきは意外なほど丁寧だった。少し強く締められる。「痛い」「罰よ」「何の」「私に同じ傷をつけた罰」「契約したのはそっちだろ」「だから腹が立つの」理屈が通っているようで通っていない。けれど、そのやり取りが終わると、再び沈黙が降りた。古地図は二人の前に広げてある。裏面の文字。《王女を解き放つな。彼女が望むまでは》リュゼルはその一文を何度も見た。ヴァルディオス。最初に看取った古代魔獣。彼の中にはその記憶の断片が眠っている。もっと深く潜れば、この言葉を書いた理由が分かるかもしれない。「調べる」リュゼルが言う。ネフィリアの手が止まった。「何を」「ヴァルディオスの記憶」「駄目」即答。「理由は」「分かっているでしょう」「でも」「駄目よ」声が強くなる。リュゼルは黙った。《葬送継承》で受け取った記憶は、ただの知識ではない。死者の感情。痛み。恐怖。願い。深く触れれば触れるほど、それらと自分の境界が曖昧になる。一度、ヴァルディオスの怒りに呑まれかけた。あの時はネフィリアの声で戻った。次も戻れる保証はない。「私のことで、あなたが自分
城の北側へ伸ばしていた影鳥が一羽、翼を半ば失った状態で戻ってきた。黒い羽根を散らしながら城門を越え、石床へ落ちる。ネフィリアがすぐに片膝をつき、掌へ乗せると、魔力で作られた小鳥の輪郭が数度揺らいだ。外敵に攻撃されたのだと理解した瞬間、近くで荷の整理をしていたイセラの黒豹の耳が立った。「人?」「ええ。それもかなり多いわ」ネフィリアは目を閉じ、壊れかけた影鳥が最後に見た光景を読み取った。紫紺の瞳を開いた時、その表情からわずかな緩みも消えている。「三十七。全員人間。統一された甲冑を着ているから、傭兵ではないでしょうね」「紋章は?」ヴァレクの声が背後から飛んだ。いつもより低かった。彼は冥甲熊との一件以来、城の武器庫を整理する仕事を勝手に引き受けていた。傷はほぼ塞がっており、黒鉄の鎧もフィオルが修理できる範囲だけ手を入れている。胸元に残された古い紋章の削り跡だけは、本人が触らせなかった。ネフィリアは影鳥から読み取った形を説明する。「白地に、剣を抱く双頭の鷲」ヴァレクの右目が細くなった。「フェルザだ」短い言葉だったが、イセラがすぐに腰の湾曲刀へ手を掛けた。「お前の国か」「元、だ」ヴァレクは訂正すると、城門へ向かって歩き始めた。リュゼルがその前へ回り込む。「どこへ行く」「俺を探している」「まだそう決まってない」「フェルザ王国の正規騎士が、観光のために奈落へ三十七人も降りてくると思うか」返す言葉がなかった。ヴァレクはそのまま進もうとする。リュゼルは退かなかった。「まず話を聞く」「俺が出れば済む」「済むかどうかを決めるのは、話を聞いてからだ」ヴァレクの眉間へ皺が寄る。しかし口論を続ける前に、外から角笛が響いた。三度。短く。軍隊が交渉を求める時の合図だとヴァレクが告げる。「向こうもすぐ攻める気ではないらしい」リュゼルは黒鎖短剣を腰へ差した。「なら交渉する」ネフィリアが隣へ立つ。「私は姿を隠したほうがいい?」「いや」リュゼルは首を振った。「ここにネフィリアがいることを隠して話しても意味がない」「相手が人間なら、私を見た瞬間に交渉が終わる可能性もあるわよ」「それでもだ」イセラが鼻を鳴らす。「相変わらず面倒な正直者だな」「嘘が下手なんだよ」「それは知ってる」城の中では、シュカたちがすでに年少者を奥
灰牙が残した荷物には、子ども用の鉄枷が三十七個入っていた。数え終えた時、リュゼルはしばらく指を動かせなかった。革袋から取り出して石床へ並べた枷は、どれも小さい。成人の手首には合わない。中には幼い子どもでも余るほど細いものまであり、内側には逃亡を防ぐための返しがつけられていた。「壊していい?」フィオルより幼く見える獣人の少年が訊いた。「いいよ」リュゼルが答えると、少年は両手で一つを持ち上げ、石へ叩きつけた。一度では壊れない。二度。三度。他の子どもも近づいてくる。誰も声を上げなかった。ただ順番に枷を受け取り、石床へ打ちつける。乾いた金属音が神殿に何度も響いた。リュゼルは止めなかった。最後の一つが歪み、使い物にならなくなってから、灰牙の荷物を改める。保存食。油。縄。解毒薬。金貨。捕獲用の眠り粉。それから、ザハルが身につけていた革袋。血と灰が付着している。ネフィリアは少し離れた柱へ背を預けていた。肩の傷は布で巻いてある。リュゼルと同じ場所。本人は痛みなど存在しないような顔をしているが、ときおり右手で左肩を押さえる。「休んでいていい」「あなたも負傷者よ」「俺は荷物を見るだけだ」「私は立って見ているだけ」「なら同じか」「そうね」短いやり取り。以前なら、それで会話は切れていた。今は不思議と沈黙が重くない。リュゼルは革袋の口紐を解いた。最初に出てきたのは、数枚の依頼書。文字は魔族領で使われる公用文字らしい。リュゼルには読めない。ネフィリアへ渡す。「何て書いてある?」彼女は目を走らせた。「回収対象。十五歳以下を優先。魔力保持者、混血、希少種は損傷を避けること」声が僅かに低くなる。「搬送先は?」「書いてない。符号だけ」「黒冠研究棟と同じか」「おそらく」紙の端には、現魔王家の紋章とは別に、小さな白い円が押されていた。それを見たネフィリアの指が止まる。「それは?」「知らない」即答だった。しかし紙を戻す動きがほんの僅かに遅れた。リュゼルは追及しなかった。次に出てきたのは硬貨。続いて黒い鍵。そして最後に、何度も折り畳まれた厚い皮紙。開いた瞬間、埃と古い油の匂いが立った。「地図か」祭室の床へ広げる。大きい。現在彼らが把握している神殿周辺だけではない。奈落の深層が、複雑な樹木